鎌倉・万福寺の鎌倉彫の襖絵
2009年6月13日(土)曇り

 【東慶寺】のイワガラミを観賞するする為に鎌倉へやってきた。
 いつもは北鎌倉で下車することが多いのだが 時間が3時から4時と決められている
 ので先ず【成就院のあじさい】を見て江の電で足を延ばして【万福寺の鎌倉彫の襖絵】
 見に行くことにする。以前にこの鎌倉彫の襖絵を見て印象に残っている。
 江の電で「腰越駅」で下車する。腰越はシラス漁で有名な小さな港町。そこに
 『源義経・弁慶ゆかりの寺 満福寺』があります。腰越駅から海へ向かい、
 徒歩約3分、左手に満福寺の案内板が見えてきます

 ※ 襖絵はすべて満福寺の方の了解のもとに写真を撮らせて頂きました。
「交 通」 JR市川駅9:19快速→鎌倉10:32分着
【Menber】 単独
鎌倉の腰越にある満福寺は天平16年(744年)僧・行基が開山した寺で、
京都大覚寺派真言宗です。満福寺は源義経の腰越状で世に知られた寺である。
源義経伝説を語る際、満福寺は絶対に落とすことは出来ない。一の谷、屋島、
壇ノ浦と次々に平家の軍を破って、平家を滅ぼすという大手柄を立てた
源義経であったが兄・源頼朝とは方針が合わず、元歴2年(1185)5月、源義経は
平家の捕虜を同行し兄・源頼朝に面会するために、京から鎌倉へ向かったが、
源頼朝は義経を鎌倉に入る事を許さなかった。
しかなく源義経は腰越の満福寺に逗留し、元歴2年(1185)5月24日、義経は一通の
嘆願状(腰越状)を書き、源頼朝の信望の厚かった公文所別当・大江広元に
差し出し申し開きをするが、それも空しく、ついに鎌倉の門は開かれなかった。
義経はそのまま京へ帰り、奥州・藤原秀衡を頼って姿を消した。
藤原氏4代目・泰衡の裏切りによって命を落としたのである。
本堂
石段のすぐそばを江の電が走っている。
境内には水子供養のお寺でもあります。
今日はご法事が入っていて10分位待って下さいと言うことで少し中で待つ。
その後も又ご法事が入っているのであまりゆっくりと見ることはできなかった。
弁慶の腰掛石
【弁慶の立ち往生】
 襖4枚を使った超大作になっている。
 奥州・衣川での弁慶の死の場面敵の矢が何本も何本も体に突き
 刺さりながらも敵に突入していき【我、死して不動明王とならん】
 
【静 子供との別れ】
   生まれる子が女児なら助け,男児なら息の根を断とうと
 いうことで、生まれた子は安達新三郎清経という武士が
 禅師の抱いていた赤子を奪い取り由比ガ浜に向かった。
 
【雪の逃避行、奥州へ逃れる義経主従】
 鎌倉入りを拒否された主従が京へ戻り、またここも追われる
 ようにして逃れていきました。
"勧進帳" の話にも出てくる山伏姿に変装した義経が 一番左に
 描かれている
 
【恋い慕う義経を追いかける静】
  見るとても嬉しくもなし増鏡 恋しき人の影を止めねば
静御前の舞い
 しづやしづ賤のおだまき繰り返し
   昔を今になすよしもがな
 吉野山嶺の白雪踏み分けて
   入りにし人の跡ぞ恋しき
 義経を恋う恋歌である。
【腰越状を書く義経】
 義経は大江広元にあてて手紙を書き、広元から頼朝にとりなして
 もらおうと思った。
 恐れながら申し上げます。私は代完の一人に選ばれ、勅を奉じて
 朝敵を滅ぼし会稽の恥辱を雪ぎました。思いもかけぬ讒言により
 莫大な恩賞も黙殺され、とがと勘気を蒙り紅涙を流しております。
 讒言を確かめることもなく、鎌倉にも入れて下さいませぬため私の
 心を申し述べることが出来ませんでした。兄、頼朝殿の顔を見ることも
 できないのは、骨肉の情が消えて、宿運が空しくなったためでござい
 ましょうか。
 
天井に描かれた龍
天井に描かれた鎌倉彫の龍
腰越状
この腰越状は「不顧為敵亡命」の六文字が抜けた為、満福寺に残った物。
電話
今も使っているのですかとお聞きしたらついこの間まで使って
いましたと言うことです。
 
義経庵で昼食にシラスオムレツを頂く
義経庵からは海が見渡せる
江の電
腰越駅で絵の電を待っていると駅にポスターがあり見ると
光則寺の真っ赤な額のアジサイの写真が貼られている。
あまりの色の鮮やかさにひかれ途中下車して行ってみる
事にした。

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